湘南サウンドオフィス

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湘南サウンドオフィスハープレッスン

私が受けた音楽教育はとても恵まれていました。恩師のヨセフ・モルナール先生は音楽の本場ウィーンの出身で、幼い頃から生活と音楽が一体になった環境で育ちました。両親の話す言葉を覚えるのと同じように、家の中では、いつもお父さんがボタンアコーディオンを弾き、お母さんがオペレッタのメロディーを歌って聴かせてくれたそうです。モルナール先生の生活を見ていると、朝起きてから夜寝るまで、音楽することが自然で、本当に心から楽しんでいました。
私は、いつもモルナール先生のあの懐かしいレッスン風景を思い出します。湘南サウンドオフィスでは、ハープ教室に通う生徒さんが、それぞれの生活の中で、ハープと親しく対話できるような、そんな楽しいクラスにしたいと願って指導にあたっています。楽譜が読めない方でも、音楽する喜びを見つけられるような教材を用意していますので、お気軽にご相談ください。

1レッスン40分:5,000円〜(個人レッスン)
体験レッスンもございますので、ご相談ください。

モルナール先生と私

 私を導いてくれモルナール先生、先生は音楽の本場ウィーンからN響の招きでいらして『戻ってこい』と言われたのに、結局ずっと日本にいらした。その恩師の気持ち。本当はどういうお気持ちで、なぜあそこまで日本にとどまり、日本の音楽が活性化するように、オーケストラのために尽くしたのか。私はそのことの意味がずっと頭の隅から離れませんでした。
 私がハープを始めたのは、小学校6年生の時で、地元に通って指導されていた先生からでした。
 父が「小学校6年生では、ヴァイオリンやピアノはみんな上達しているから間に合わないが、何か変わった楽器をやった方が良い。ハープはまだ誰もやっていないから、勝負できるかも知れない」という、ある意味では非常に戦略的な理由でハープを始めた私は、父の期待に応えて無競争の中、モルナール先生に出会いました。高校3年で受験を控えていた私は、父に伴われて目黒区三田のモルナール先生宅を訪れました。先生は「男の子は珍しいです」「何か弾いてくれますか?」と言われたので、GLINKAのモーツアルトの主題による変奏を弾きました。演奏が終わると、モルナール先生はにっこり微笑み「八木さんはタレント(才能)があります。是非音大に進むべきです。桐朋のハープが欲しいです」と話がとんとん拍子に進み、翌年の3月に桐朋学園のディプロマコースを受験することに決まりました。
 当時、我が家には小型ハープしかありませんでしたので、音大を受験するために、毎日学校の返りにモルナール先生の自宅に寄り、練習をして帰るという、猛特訓が始まりました。
 モルナール先生の特訓のお陰で、翌年4月には桐朋学園に無事入学することが出来ました。
 入学後も、モルナール先生は何かと目をかけてくれて、先生との二人三脚が続きました。
 ある日のレッスンの時、先生が「あなた時間ありますか?」と聞かれたので、「ハイッ」と答えると、「映画見に行きましょう。傲りますよ」と、直ぐに先生の自宅の目黒からタクシーに乗り、新宿歌舞伎町の映画館に行きショーン・コネリーの主演「薔薇の名前」を一緒に見て、そのままタクシーで戻り、レッスンをしてもらったことなど、思い出は沢山あります。
 また、こんなエピソードもありました。レッスンに行くと「私クレイジーキャッツ教えますよ。あなた手伝ってください」と言われ、何が何だかわからずに先生と一緒にタクシーに乗り、旧河田町にあったフジテレビに着くと、スタジオにハープが並べられていて、本当に植木等さんやドリフターズのいかりや長介さん達がハープを弾いていました。その時、これはお正月に放送される「新春かくし芸大会」のフィナーレで西軍キャプテンの植木さん達がハープを弾くのを、モルナール先生が指導を頼まれただとわかりました。曲はグリンスリーブスで、皆さんバンド出身なので、ハープの弾き方がわからないだけで譜面は読めるし、音楽のセンスがあるのでもう既に形になっていました。私の担当は植木等さんと桜井センリさんで、楽器のチューニングをして、アンサンブルの時に弾き方を教えました。植木さんが「急に弾いたので指が痛いので、代わりに弾いてください」と言うので、私が弾くと「やっぱり本職は上手い」と褒められました。私は番組収録の日は都合が付かず行かれなかったのですが、モルナール先生から「『私の先生が来ていない』と植木さん言ってましたよ!(西軍が)勝ちましたよ」と聞かされました。この話もモルナール先生の音楽を心から楽しんで他人を幸せな気分にする、スケールの大きさを物語る思い出です。
 また、ある日のレッスンでは、「あなたお腹空いたでしょう?」と言って、先生がウィーンのサラダと料理を作って出してくれました。本当にいつもいつも幸せな日々で、モルナール先生に見守られていた恩恵を思い出します。
 その後、モルナール先生の教育方針が、必ずしも桐朋学園の斎藤メソード(楽譜を読み込んで徹底的に完璧を目指す)と違うので、父と話してモルナール先生の元を離れることになり、モルナール先生と疎遠になってしまいました。モルナール先生は私たち親子の計画に反対しましたが、当時24歳だった私には、モルナール先生の失望と悲しみなど知る由もありませんでした。
 それから25年の歳月が流れ、私が49歳の時、最愛の父が他界しました。幼い頃より父と一心同体で、大人になっても大きな影響を受けていた私は、「これからどう生きて行ったら良いのか?」一瞬判らなくなってしまいました。
 父の四十九日が終わり、バタバタの中でコンサートを一週間後に控え、何も練習していないことに気づきました。「このままではコンサートが出来ない。どうしよう!怖い」と動揺しましたが、練習を始めると、何故か「モルナール先生とのレッスンの日々のこと」が思い出され、「モルナール先生への感謝の想い」が湧きあがってきました。コンサートは思いのほか好評でしたが、その直後にモルナール先生の事務所から「国際ハープフェスティバルのプロデュースをやって欲しい」と電話が入りました。そのプロデュースをきっかけに、私は再びモルナール先生のお手伝いをするようになりました。
 モルナール先生は、若い頃からバイタリティーに溢れ、私たち弟子がついていくのが大変なぐらい精力的でしたが、さすがに私が復帰した頃から、少しずつ衰えが目立つようになりました。
 2012年6月17日には桐朋学園退官のパーティーが東五反田・池田山のご自宅で開かれました。また、同年9月21日には引っ越しをされた品川区小山・洗足のご自宅で「モルナール先生の滞日60周年をお祝いする会」が開かれ、無事終えることができました。
 振り返ってみて、私はモルナール先生にとても不思議なご縁を感じています。
 ここでもう一度「先生は音楽の本場ウィーンからN響の招きでいらして『戻ってこい』と言われたのに、結局ずっと日本にいらした。その恩師の気持ち。本当はどういうお気持ちで、なぜあそこまで日本にとどまり、日本の音楽が活性化するように、オーケストラのために尽くしたのか?」次のように考えてみました。
 先生の志は、ちょうど明治維新の改革の嵐が吹き荒れた時の、吉田松陰や緒方洪庵が松下村塾や適塾を開いたのと同様に、日本の新しい時代を見据えてハープ界に人材を輩出し、「『まごころと願い』の素晴らしさを私たち弟子に伝えたかったのではないか?」と感じています。ならば、私たち弟子達が次の世代に何を伝えていかなければならないのか?
 これからそれを模索して参りたいと思います。先生からの真心のバトンをどのように受け継ぐのか、ハープを愛する皆さんと考えて参りましょう。

八木健一